Épagneul Breton-Vol.7
日 本 民 族 と 狩 猟 文 化
  西洋人を狩猟民族、東洋人とりわけ日本人を農耕民族と分類して民族性を評する人たちに接する
ことがしばしばありますが、この分類は決して正しいとは言えません。

  人類学的なことは詳しくは知りませんが、農耕文化が発生する前は全て狩猟・採取の文化であり、
人類の起源からの長い年月で考えれば、全ての人類がつい最近まで狩猟・採取により生きる糧を得
ていたと言えるのです。

  知能の発達した人類はやがて栽培・飼育という手段を確立して今日に至っていますが、気候、風土
と水利に恵まれた地域では他より早く農耕が発達したものの、極寒、灼熱の地帯や植物の生存に欠
かせない水の乏しい地域などでは未だに狩猟・採取の文化から抜け出していない所もあります。

  地球に生物が生存し得るエネルギーの根源は太陽であると思います。
  穀物の栽培可能な地域では、太陽エネルギーを蓄えた穀物を直接人類が摂取することが可能です
が、単純な草木しか育たない地域では牛、羊などの家畜に一旦この太陽エネルギーを摂りこませ、そ
の肉や乳、内臓を食する間接的な手段がとられていると言えるでしょう。
  物流の発達した現代ではこれらの地域性はかなり変化していますが、狩猟民族、農耕民族という分
類より、このエネルギーの主たる摂取方法の違いで区分する方が分かり易いのではないでしょうか。

  日本民族は厳密には単一民族ではありません。
  日本民族がモンゴル族だということは動かない事実のようです。
  日本に文化が芽生えたのは縄文時代と言われています。その後弥生時代が来るのですが、縄文
人は今の標準的な日本人(内地人)と較べて彫が深いようです。この縄文人を古モンゴル族、弥生人
を新モンゴル族と分類するそうです。

  アイヌの人たちは純粋な古モンゴル族ですが、彼らが飼っているアイヌ犬は台湾の犬にDNAが酷
似しているらしく、古モンゴル族は南方から渡来した民族との説があります。
  古モンゴル族がいつから日本に住みついていたのかは知りませんが、彼らは農耕文化を持たなか
ったようなのです。

  弥生人は中国大陸、朝鮮半島から農耕文化とともに日本へ移ってきました。
  この弥生人は近畿を中心として拡がり、古モンゴル族を南北に分断した後、彼らと民族的にも文化
的にも同化して現在の日本民族を形成し、後に大和朝廷を興したと言われています。
  その後九州の熊襲や隼人と呼ばれた古モンゴル族は弥生人と融和・同化したものの、アイヌの人
たちや一部の離島の人たちはほとんど同化することなく現在に至っているというのが定説のようです。

  いずれにしても大多数の日本人が何らかの形で古モンゴル族の血を受け継いでいます。

弥生人は農耕文化を持っていたとはいえ100%農耕に依存していた訳ではなく、狩猟も盛んに行わ
れていました。中国ではあらゆるものが食材になっていますが、とりも直さず狩猟・採取文化の名残り
です。
  犬も例外ではなく「羊頭を掲げて狗肉を売る」という言葉まであり、時には犬も食用に供されました。
  食用に改良された犬の子孫が「チャウ・チャウ」であるらしいのです。

  人類が共に生活することとなった最初の動物は犬だと言われています。オオカミを祖先とする彼ら
の狩猟能力は素晴らしく、大いに人類に貢献したことでしょう。
  犬を飼う習慣のある民族は、言葉を変えれば狩猟民族またはその末裔と言えるのです。

  雑食性の生物である人類は、いつ、どのような民族であれ何らかの動物性たんぱく質やミネラル
等が必要で、生存のため魚、鳥、ほ乳動物その他を食してきました。私たち日本民族もその例外で
はありません。

  宗教が生まれ食習慣も相違するようになりましたが、少なくとも生きるか死ぬかの瀬戸際で、良質
の栄養源を見逃すようなことは人類が生物である以上考えられないことです。

  日本では仏教が普及し殺生を禁ずる教えが広まりましたが、内陸部、山間部などでは手に入りに
くい魚介類の代わりに兎や猪などを食していたのは事実であり、種々の猟法が伝承されています。
  鯨が魚類でないことは承知していたでしょうし、脚があろうがなかろうが肉の食味と飢えにはほと
んど無抵抗であったでしょう。
  なにしろ僧侶が妻帯する国です。「マタギ」と呼ばれる職業猟師もいましたし、馬具その他の調度
品も皮・毛皮から造られていましたが、肉や内臓を捨てていたとは俄かには信じられません。
  人目を忍んだかどうかは分かりませんが、馬肉を「さくら」、鹿肉を「もみじ」、猪肉を「山鯨」または
「牡丹」と称して食していましたし、兎を一頭二頭、一匹二匹でなく一羽二羽と鳥のように数えるのも
何か意味ありげです。

  ここで改めて、私たち日本民族をあえて「狩猟民族」と「農耕民族」という言葉で表現するならば、
『日本民族は元来単一の狩猟民族であったが、農耕文化を持った民族と同化し、長く半農半猟(漁)
の生活を営んできたものの、現在に至っては飼育農法の発達や経済の発展により狩猟による食糧
の獲得を必要としなくなった民族である。』ということになります。

  今、飽食の日本で狩猟により生活の糧を得る必要性はほとんどありませんが、ほんの40〜50年
前までは庶民が牛肉などを口にすることは滅多にできなかった時代だったのです。
  私が子供の頃、学校の遠足のアトラクションや町内会のレクリエーションで「兎狩り」なるものが行
われていた記憶がありますが、少なくとも現在より当時の方が狩猟文化の名残りが色濃く残存して
いたことの顕われではないでしょうか。
  表向きはどうであれ、日本でも狩猟文化は連綿として受け継がれてきたのです。

  私たち日本人にも狩猟民族の血は流れています。

  人格形成の過程で私たちの持っている狩猟本能が発現する時期があります。
  犬や猫の子ほどでもありませんが、幼児でさえ動くものに興味を示し、掴まえようとします。
  動物では雌雄に関係ないようですが、人間の場合は男性のみが狩猟に従事してきたのが特徴
的です。
  新人=ホモ・サピエンスと呼ばれる現人類の祖先が現れてからでも何万年もの間、人類の男子
は狩人として生まれてきたのです。未開の部族の人たちの映像を見る機会がありますが、女性が
狩猟に参加しているのはかって見た記憶がありません。

  日本人でも男子の子供たちはトンボやバッタ、蝉などを獲るのに狂喜し、それを掴まえるための
道具や接近法を工夫します。昔の悪ガキたちは飛び道具まで作ったものです。竹筒、太い針金、
大きい輪ゴムで飛び出し式の銛を造り、蛙などの小動物を串刺しにして遊んでいました。
  近所に年長の空気銃を持っているお兄さんがいて、たまに石ころを標的に撃たせてくれました。
  金嬉老事件、浅間山荘事件、三菱銀行播磨町事件など銃犯罪の増加によって銃規制が強化
されましたが、それ以前はまだ社会が銃に対して大らかだったのです。
  大人や興味のない人たちから見ればこれらの遊びに何らの有益な意義もありませんが、私たち
は子供の「禁じられた遊び」の中で狩猟本能を満たしていたのです。

  多様化と環境の変化により子供の遊びも激変しました。銃の所持も難しくなり、よほどの執念と
熱意を持たなければ許可を受けられない地域もあります。
狩猟法は目的のない殺傷を認めていません。弓矢やパチンコなど威力の弱い猟具も認めていま
せん。徒に獲物を苦しませることのない為にです。

  狩猟法は難解です。厳密に適用すれば至るところで違反が繰り返されていると言えるでしょう。
  特に獣猟がそうです。犬が猪や鹿を噛み止めている場合、ほとんどの狩猟者は犬を巻き添え
にしないためナイフで心臓を刺すでしょうが、このナイフは実は猟具として定義されてはいませんし、
犬ですら何の規定もありません。
 農夫が自分の畑を荒らしている獣を鍬や棒切れで殴り殺してもいけません。
 罠猟など甲種免許の狩猟者も銃で止めを刺さなければならない理屈になり、毛皮や肉を傷めな
ければならないことになります。

  交通違反などとは違って一度摘発されると10年間は許可されないし、10年後の保証など何も
ないのです。

  猟具も高価です。日本は世界一銃と装弾が高価な国です。猟用の安い自動銃ですら大卒初任
給よりもはるかに高いのです。射撃用の銃ならそこそこのクラスでその何倍もします。
 冗談でなくたかだか4s程度の鉄と木の塊が2tもあるベンツの高級車と同じ価格のものなど、重
さだけなら純金の方がよほど安いものまであります。
 真剣に射撃に取り組めば到底ゴルフなどの比ではなく、金持ちの道楽と言われる所以でしょう。

  このように日本では、射撃と狩猟に対して様々な抑制があります。射撃や狩猟に興味を持ち、
始めてみようと思っても実際に銃を手にし、狩猟免許を受けるまでの煩雑な手続き、長過ぎる期
間、中途半端でない出費などが途中で申請者の意欲を削いでしまう場合がほとんどなのです。
  簡単にはこの世界に入れないし、一度疎外されるとリターン・マッチは巡って来ないのです。

  名のある識者でも狩猟が文化であることを理解していない場合が多く、建造物や芸術などの保
存・伝承のみが重要視されています。生活様式が文化であるならば狩猟も文化であり、狩猟者は
その文化の伝承者でもあります。

  銃犯罪の内いわゆる「許可銃」によるものの割合はは不法所持によるものに較べて極めて少
なく、そのほとんどが盗難にあった銃によるものです。
  然るに、有識者でさえも銃犯罪が起こる度に、十把一絡げに銃規制を叫び、あまつさえ狩猟者
にとっては屈辱的とも言える「農耕民族」という名を冠せようとするのです。

  大人の遊びやスポーツも多様化しています。なにもこの時代に銃を振回さなくとも・・・という
意見も多いことでしょう。しかし狩猟になぞらえた射撃が純粋なスポーツであることは国際的に
も認知されています。
  オリンピック競技においても日本を沸かせるマラソンや柔道などと較べ、射撃に関する競技種
目数=金メダルの数ははるかに多いのです。
  ここで理解しておかなければならないのは、射撃競技が盛んな北欧や東欧の人たちもかって
は狩猟民族?であったが、現在は日本とさほど変わらない生活様式であり、敢えて言うならば
日本が徐々に肉食中心の文化に近づいているのに較べ、逆に菜食文化に近づこうとする傾向
だと言うことです。
  ただ違うのは伝来の文化を守り、承継して行こうという姿勢が射撃というスポーツにも顕れ、
身近なものになっていることでしょう。

  猟具は進化しました。銃はその典型です。しかし、ある時代にはその性能で多くの人類の食
欲・生存を支えてきたのであって、むしろ何百分の一の価格で誰にでも買える調理用刃物の
方が、部品の一部や装弾を備えていない銃が単なる木と鉄の塊であるのに対し、遥かに危険
な代物であることは日常起きている多くの事件が物語っています。
  また、銃で人を殴り殺したという事件は聞きませんが、金属バットでというのはしばしば耳にす
ることがあります。そして、いくら高性能な銃器を装備しても、他国はおろか身内同士の喧嘩も
できないほどに武器は進化しています。
  やみくもに嫌悪するのも如何なものでしょうか。全てはそれを所持する人次第なのです。

  クレー射撃や狩猟ほどストレスを解消できるスポーツが他にあるでしょうか。
  クレーを芯弾で木っ端微塵に煙のように撃ち砕いた時、知恵較べの末飛翔する鳥をクス玉を
割るように落とした時、不謹慎かも知れませんがこの時人間の狩猟本能は満たされるのであり、
私はこれに抗うことができないのです。

  非常に大胆で独断的ですが、最近日常的に起こっている事件に対して持論があります。
  『どうして捨て犬の猟犬がいるの?』で述べた矢ガモ事件、米国であった連続狙撃事件、酒鬼
薔薇聖斗事件、池田小事件、昔では考えられないほど頻繁に起こる殺人事件など怨念、収奪
その他の動機では説明できない無目的、無選択の殺人事件についてです。

  取調べや公判の記録を見た訳ではなく、マスコミでも論じられることはないのですが、狩猟
者である私には「もしかすると!」と感じ、懸念するものがあります。それは狩猟本能が為せる
誘惑です。

  私が子供の頃にはこれらの類の事件はほとんど無く、また、動機が説明できたのです。
  当時にもチャンバラ、西部劇の映画はありました。チャンバラごっこや水鉄砲などでの遊びも
しましたが、相手が傷つき死ぬようなことは決してなかったのです。
  子犬たちがじゃれ合って遊ぶのと同じように学習しながら成長してきました。悪ガキの遊びも
随分としましたが、敢えて咎める大人はほとんどいませんでした。
  成長とともに倫理観が醸成され潜在的な狩猟本能を包み込んで、興味をそそられる対象が
多様化していったのです。
  善も悪も経験して人間は成長することを大人たちは知っていたのでしょう。

  昭和40年代以降、急速な経済の発展とともに子供たちの遊びが一変しました。
  環境破壊が子供たちの遊び、狩猟本能の発現を奪って行きました。
  自己満足型のTVゲームなどが流行り、子供たちは仮想空間に浸るようになりました。うまく
いかなければリセットすることもできるのです。
  しかし、何よりも変貌したのは、子供たちが自らの手で小動物を殺めるようなことがなくなり、
現実の死に対する概念を歪めていったことでしょう。ゲームのキャラクターは何度でも蘇えるこ
とができるのです。
  鉄腕アトムや鉄人28号の時代では人を殺すような生々しい場面は見られませんでしたが、
人間の形をしたキャラクターが戦い、殺し合うようになりました。映画やTVでは、実際にはあり
えないような格闘、戦争のシーンが氾濫するようになりました。中でも「プレデター」は人間を
ゲーム(獲物)とした狩猟映画の典型だと言えます。

  「ムシャクシャしていた」とか「相手は誰でも良かった」などの言が伝わって来ます。
  全く反省の色もなく、本人も何が自分を突き動かしたのか分からず説明できないのです。
  到底理解できる訳でありませんが、これらの行動は狩猟本能と全く関係がないとも言い切
れないのではないでしょうか。
  何しろ人類の遺伝子には狩猟本能がインプットされているのです。僅か半世紀に満たない
短い年月で遺伝子情報が書換えられるものでもないでしょう。

  適正な時期に適正な狩猟本能の発現を見ず、理性でこれを抑制することのできない人たち。
  現実空間と仮想空間の区別ができない人たち。
  ある時、突然に歪んだ狩猟本能が芽を出し誘惑する。
  経験したことのない欲望と興奮に抵抗することができない。
  そんな人たちが増えてきているのではないでしょうか。

  灰色熊(グリズリー)と人間とを同様にライフル・スコープのCross Hairに捉えて見る時、果たして
この人たちの胸の昂まりは同種のものなのでしょうか。 

  擁護するつもりなど毛頭ないのですが、この人たちもある意味で、歪められた本能の犠牲者で
あると思うのは、狩猟者である私だけなのでしょうか・・・。

                    Un maximum de qualités dans un volume minimum.


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