ミッキーが最初の出産、育児を終えた次の年、

平成8年1月のことであった。

当時まだ工事中だった日吉ダムの北方に位置する北山の、

とある谷での出来事である。


年の明ける前に、

この谷の突当たり近くでヒネヤマドリに遭遇したが逃げられていた。

谷の突当たり近くは植林のため雑木などが伐採されて、

鳥の隠れそうな場所が山のかなり高い部分にしか残っていなかった。


彼は沢筋からヤマドリの歩行跡を嗅ぎつけ、

ほとんど直線的に繁みに向かって登って行った。

彼の姿が繁みの中に消えると私は射撃準備を整え待機した。


しかしこの時彼は私の前方15m位の真上にいて、

彼と私の距離がやや近過ぎたのである。

高い場所から翔び出したヤマドリは、

私から遠ざかるように半円弧を描き、

高さを維持したまま飛翔して行った。

沢を降れば私の頭上を通り越し、

追い矢にはなるが、長く視界に入ることになると考えていたのだが、

ヤマドリは私の存在に気付いていたのか、

沢を降らず山の縁を舐めるように逃避して行ったのである。


普通、ヤマドリが翔び出した直後から方向を変えることはない。

樹木が伐採されていたため視界を遮るものがなく、

ヤマドリからは私の接近が丸見えだったのであろう。


彼と私の標高差でさえ20m以上もあり、

この距離から遠ざかる追い矢では全くの射程外だった。


その後もこのヤマドリとの遭遇は何度もあったが、

沢を降らずに何故か谷を跨ぐように翔ばれることが多く、

このヤマドリに対して、私は一射も引いたことがなかったのである。


峠にあるトンネルの入口手前から右へ折れ、

20cmほどの積雪が残る林道を進んで行った。

何日も前の積雪だったが誰も谷に入っていないのか、

車の通った形跡は残っていなかった。


所々に吹き溜まりがあり、

数十cmもの雪上では車が泳ぐ状態になった。

ステアリングもカウンター多用でアクセル・ワークに頼ることが多かった。

リミテッド・スリップ・デフが効いて登りは何とかなったが、

下りはいつもヒヤヒヤものだった。


雪の上を浮かぶように進み大きな転回場所に停車した。

彼と彼女と両方を車から出して進むと、

いたるところに狐、兎、鹿などの足跡が残っていた。


大きなカーブを曲がった時、

一面の熊笹の中に多数の鹿が群れているのが眼に入った。

十頭以上の大群だった。

立派な角を持った黒く大きな牡鹿もいた。


鹿は1頭が走り出すと皆同じ方向へ走り出した。

それを見た彼も彼女も連られて走り出した。

本来四足は追って欲しくないのだが、

突然の出遭いで驚きの余り追いかけたのであろう。

仕方なく私も胸の弾差しからスラッグ弾を抜き取って進み出したが、

股下近くまで積雪のある部分もあり、

とても脚の抜き差しができる状態ではなかったので直ぐに諦めてしまった。


動くゲームに単体弾を撃ってみたいという欲望はあったが、

鹿を撃っても回収が大変だろうし、

解体の技術も生半可なもので、

獣猟者のような執念を持っていなかったのである。


呼び戻すと彼は直ぐに戻ってきたが、彼女が戻って来なかった。

2、3度呼んだが姿を見せないので、

またいつもの隠れんぼだろうと思い、

これ以上進めないので引き返し始めた。

置いて行かれると思えば彼女も出てくるだろうと考えたのである。


ヤマドリには出遭えず車まで戻ったが、

まだ彼女は姿を現わさず、

何度も犬笛を吹いたが戻っては来なかった。

犬笛では音量が小さいのかと思い、

アクメ社のホィッスルを出して交互に吹いた。

1時間近く耳が痛くなるほども吹いたが何も現れなかった。


私の不安は頂点に達していた。

彼は遊びのつもりで鹿を追ったが、

彼女は真剣になって追ってしまったのだ。


本来獣に興味のないスパニエルが足臭を追える訳はない。

しかし目が良いとは言えない犬であっても、

白一色の中を動く鹿は見えるだろう。

谷は雪が深いので鹿は尾根を走るだろうが、

尾根を走られると簡単にひと山越えられてしまう。

獣猟犬に較べて鳥猟犬は戻りが格段に良い。

獣猟犬ではこんな事は日常茶飯事なのだろうが、

鳥猟犬しか飼ったことのない私は、

ものの5分でも戻って来ないと不安になったのである。


犬が連絡を切って遠く離れ、戻らないことを『飛ぶ』と言う。


彼女は鹿を追って飛んでしまったのだ。

この深い雪で鹿より脚の短い犬が追いつける筈はないのだが、

鹿の後を追ってひと山越えてしまったのだろうか。

山を越えていれば笛の音は届かないかも知れない。

しかし越えていなければ聞こえている筈だ。


越えていないのに戻って来ないのは物理的な問題、

つまり雪崩に遭ったか、鹿に絡んで受傷したかである。

この雪では罠を踏むことはないだろうし、

もしそれならキャンキャンと泣くであろう。

悲鳴なら私には聞こえなくとも彼には聞こえる筈だ。


更に1時間以上、私は彼と一緒に、

車と鹿を発見した場所とを笛を吹きながら何度も往き来したが、

谷には何の変化も起こらなかった。

日没まであと3時間もなくなった。

もし今日中に見つからなければ・・・ 

明日からの仕事のこと、

新聞の折込広告の手配、

地元猟友会への協力依頼等々、

色々な煩雑な事柄が頭に浮かんできた。


彼女が着けていた首輪は、ステンレス製のチェインと銘板が一体になったものであった。

銘板には私の氏名、住所、電話番号が打刻されていた。

ロックナットの螺子はW構造であったし、

もし緩んだとしても、

簡単には外れないだけの緊張を持たせてあった。

材質も並みのペンチなどで切れるような代物ではなかったので、

保護されれば何も問題はないのだが、

ただ盗犬に遭うことも考えられた。


私はいたたまれなくなり、

もうこの谷には彼女はいないと考えて、周囲を探すことにした。

谷から離れるのも躊躇されたが、

彼女が私たちを探しまわっている筈もないと考えた。

谷は峠近くにあり、峠の稜線をトンネルが貫いていた。


私は距離が近い方の北側へ降りるためトンネルを抜けた。

山の北側には人家はなく道らしい道もない。

山麓を10倍の双眼鏡で追ったが、動くものは何も発見できなかった。

笛を吹くべきかどうか迷った。

谷に戻りはじめている時に、こちらから呼べば彼女は戸惑うかも知れない。

もう一度トンネルを抜けて谷に戻り、

暫らくの間笛を吹き続けた後南側へ下った。

南側は山麓に沿って農家が点在し、行き止まりの道路が通っていた。

途中で会った人に犬を見なかったかどうか聞いて、

行き止まりから来た道を引き返した。


行きとは逆になるので、運転席からは人家の様子が良く窺えた。

ノロノロ運転で走っていると、人家と人家の間に1頭の犬が立っていた。

最初は自分の眼を疑ったが、紛れもなく彼女だった。


私が車から下りて近づいて行くと、

最初彼女はなぜこんな場所で出遭ったのか、

不思議そうな表情をしていた。

呼んでも中々寄って来なかったが、

私が両手を広げ中腰になると、尾を振りながら突進してきた。

彼女はきっと私に叱られると思っていたのだ。


とすると、

笛は聞こえていたが、誘惑に勝てなかったと言うのが真実だったのだろう。

鹿を追い、尾根を超えて南に下った時は夢中だったが、

来た道が容易に引き返せるような状態ではなかったのだと思われる。


この大暴走の翌年に、彼女はもう一度鹿絡みで事件を起こしている。

この時私は鹿をはじめて撃つことになった。

彼がいつもとは違う妙なポイントを見せたので、私が沢を覗き込むと、

杉の若木を守るため張ってあった防護ネットに、

若い牡が角を絡ませていたのである。

私が制止しても彼女は絡んでいった。


明らかに興奮していた。

噛みつく訳でもなく単に咆えながら絡んでるだけだったが、

ボコボコと言う音が聞こえ、

彼女の白い胴が見る見るうちに泥にまみれた。

鹿は斜面で頭の自由を奪われていたため、

まともに後脚を蹴れない状態だった。

従って、彼女が直撃を受ける可能性は少なかったのだが、

所詮鳥猟犬であり噛み止めることなどできないので、

いつ後脚の直撃を受けるとも限らなかった。


暴れた拍子に頭がネットから外れることも懸念されたので、

私はやむなくブリネッキ・スラッグ弾を装填して10mほど退いた後、

跳弾を警戒して彼女の背後に付いた。


横からの射撃だと骨に当たった弾が角度を変えて貫通した時、

彼女に当たらないとも限らないからであった。

据銃姿勢を保ちながら彼女の身体が鹿から離れる瞬間を待った。


頭を狙えば良いのだが、防護ネットにも弾力があるため、

頭は絶えず動いていた。

彼女の身体が鹿から大きく離れた時、鹿の動きが一瞬止まった。

谷に12番径銃身から発射された轟音が響いた。

私はほとんど無意識のうちに引鉄を引いていた。


右胸から心臓付近を撃ち抜かれた鹿は斜面に体を寄せて痙攣していた。

弾が入った痕から煙のような、湯気のようなものが湧き出していた。

毛や皮、肉の焼ける音がジューと聞こえ、匂いが漂ってきた。


鹿は有害獣で、特に林業の盛んな北山では人間の宿敵であり、

近年は牝の射獲まで許されているが、

多くの死に接していても、

やはり個体の大きい獣の死は衝撃的なものであった。

彼女を守るためやむなく撃ったのだが、

その後暫らくはこの鹿の最期の場面が瞼に焼き付いて離れなかった。


麓へ降り、

猟師の家を訪ね歩いて回収を依頼し、

重い気持ちで帰路に着いた。

もう彼女を深い山へは放せないと思った。


相手が鹿なら大事はないが、もしカモシカなら大変だからである。

名前はシカでもカモシカは牛であり、鹿とは気性が全然違う。

『犬殺し』の異名を持ちハンターからも恐れられている。

犬が絡んだら最期、運を天に任せるしかない。

なにしろ相手が天然記念物なので、こちらは手が出せないのである。


この翌月の終猟期近く、私と彼はこの谷に入った。

春のように暖かい日の昼下がりだった。

私たちは谷の入口から徒歩で沢筋を進んだ。


この時間帯のヤマドリは、

水を飲むため沢の入口近くまで降りてきていることが多いからだ。

彼は入口から100mも行かない箇所で沢を渡り、

沢道の対岸になる緩やかな斜面を進んだ。

沢の入口付近は前年に降った大雨で熊笹などが流され、

木の根が露出するほど地肌が顕われていたので、

私からは彼の全姿が見えるほどだった。

なぜ彼が対岸へ渡ったのか、私は直ぐに理解できた。


彼は既に認定の姿勢に入っていて、慎重に歩を進めていた。

彼の前方は一面の赤茶けた土と杉の枯葉だったが、

その色を保護色としてヤマドリが潜んでいたのである。

吹き降ろしてくる谷風に、ヤマドリの匂いを感じて沢を渡った彼だったが、

この時点で既に彼の鼻は確実にヤマドリを捉えていた。

私からは見えなかったが、

遮蔽物がないため、ヤマドリは逃げ込む場所を求めて這っていたのだ。


彼からはヤマドリの姿まで見えていたのだろう。

ヤマドリがどこかに隠れて静止すれば彼もポイントに入るのだが、

相手が止まらないので、

彼は数歩進んでは止まる姿勢を何度も繰り返した。


暫らくして、

たまらずヤマドリが翔び立とうとしたのか、

彼はポイントに入らないまま突っ込んだ。

翔び立ったヤマドリは沢には沿わず、

例によって、沢を跨ぐように半円弧を描いて翔んだ。

私の位置からすると、

15mくらい斜め前から射程内を横切って行ったのである。

撃ち易い角度になった時私は初矢を引いた。

羽毛を散らすことなくヤマドリが落ちたので、

私は半矢にしたのかと思い

その方向へ駆け寄った。


彼が来る前に取り上げてみると、

とても重く素晴らしいヤマドリであった。

どこに弾が当たったのか分からないほど出血もなく、

完全に近い状態だった。

私はこれは剥製ものだと思い、

彼に噛ませることなく内臓を抜いて与えた。


帰り道に剥製店に立ち寄り見せたところ、

主人が頭に2発当たっているのを発見した。

有り得ないことかも知れないが、

距離が近かったので、

散弾と火薬とを隔てているワッズが直撃したと私は思っていたのである。

その後主人が一対あるべきヤマドリの尾羽根が一本しかないと言った。

立派な尾だったが、私は尾を開いてまで見ていなかったので、

改めて見直すと確かに片尾だった。


いつ尾が抜けたのかは分からないが、

もしこの片尾が生来のものなら、

このヤマドリの翔び方が普通とは違っていたことも納得できるのである。

つまり直線的に滑空するには、片尾では不安定だったのであろう。


剥製店の主人の計らいで2本目の尾羽根を差してもらったこのヤマドリは、

いま当家の玄関で睨みを効かせている。

Epagneul Breton-6で右顔を見せ長細く写っている方がそれである。

良く見ると、左右対称であるべき尾羽根の縞模様が

段違いになっていて不揃いである。


この二つの事件で彼女は四足にも興味を持つようになってしまい、

私は彼女をヤマドリ猟には連れて行かなくなった。


今でも散歩の時など、たまたま猫に遭遇すると異常な執念を見せ、

私にこれらの事件を思い出させて呉れる。


こんな武勇伝も幾つか持ち合わせている彼女だが、

今は子と孫たちに囲まれて、

悠々の余生を送っているのである


=つづく=


Un maximum de qualités dans un volume minimum.

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 Épagneul Breton 回想録-7
Mickyが飛んだ ケイとミッキーの共猟

回 想 録

ブリタニー・スパニエルの名犬『ケイ』の想い出